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サー・ヘンリー・ストレイチー中佐(Lieutenant-Colonel Sir Henry Strachey、1816年 - 1912年)は、ベンガル軍 (Bengal Army) に所属したイギリスの士官。チベット当局が、永くヨーロッパ人の入域を禁じていたにも関わらず、ストレイチーは1840年代にチベットの西部各地を調査してまわった。 ストレイチーは、祖父初代準男爵サー・ヘンリー・ストレイチー () の次男、エドワード・ストレイチー (Edward Strachey) の次男であった。弟には、サー・リチャード・ストレイチー () やサー・ジョン・ストレイチー () がおり、兄は第3代準男爵サー・エドワード・ストレイチー (Sir Edward Strachey, 3rd Baronet) であった〔 == チベット調査 == 1846年、ベンガル歩兵第66連隊 (66th Regiment of Bengal Native Infantry) の中尉だったとき、ストレイチーはマーナサローワル湖やラークシャスタール湖 (Lake Rakshastal) 周辺の地域を調査した。ストレイチーは、ふたつの湖を結ぶ水路を発見し、ラークシャスタール湖ではなくマーナサローワル湖こそが、サトレジ川の源である可能性を示唆した。ストレイチーの弟リチャードは、J・E・ウィンターボトム (J. E. Winterbottom) とともに、この地域の調査を1848年に引き継いだ。 1847年、ストレイチーは、アレキサンダー・カニンガムを委員長とする境界線委員会の委員に任じられた。3人目の委員はトマス・トマソン (Thomas Thomson) であった。この委員会は、チベットとラダックとの境界線を画定するために設置されたものであった。1846年のアムリトサル条約によって、イギリスは、これ以上の境界紛争の回避を期待して、ラダックをグラーブ・シング (Gulab Singh) の統治に委ねた〔。しかし、チベット当局はこれに参加せず、チベットへの入域も認めなかった。委員会はラダックのレーに拠点を置いた。委員会は境界線を画定したが、これは外交的に合意されることはなかった〔。その間、ストレイチーは1848年にヨーロッパ人として初めてシアチェン氷河を発見し、それを2マイルほど登攀した。 1849年、ストレイチーは、弟リチャードとともに、ガルワール(Garhwal:現在のウッタラーカンド州西部)からニチ峠 (Niti Pass) を越えて、短期間ながらチベットに入域した〔。このとき彼らは、托林寺 (Tholing Monastery) やハンレ (Hanle) にも立ち寄った〔。 スターチーは、1852年に、チベットの調査に対して王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を受賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・ストレイチー (探検家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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